2016年4月7日木曜日

戦争体験(1) 昭和20年四国、徳島市への空襲 -その①


 *故郷が徳島の木漏れ日さんに空襲の戦争体験を書いてもらいました。現在80歳過ぎの木漏れ日さんには70年以上も前の事なのに生々しい記憶が残っているようでした。3回連載します。*
   
    昭和20年四国、徳島市への空襲 -その①
  
 人口は26万人、山あり川ありの街で海にも近く,申し分のないふる里です。

  数々の思いでとともに父母の面影がこの地には今も色濃く存在します。

 体験は昭和20年にこの地徳島で起きた戦争のひとこまです。

 初めて体験する、「警戒警報」に続いて「空襲警報」。そして、「敵機来襲」、小さく唸る爆音で空を見上げる、銀色に光る小さい物体が、糸のような雲(飛行雲)を引いて,南から北へと飛んで行った。

阪神地方を偵察する目的で来たものと思われた。

 目的が終わって引き返す飛行機をラジオ放送では「、、、で遁走せり」と報道しているのが不自然に聞えた。

 わたしには必要な調査をして、ゆうゆうと帰路についていると感じた。 

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 何日か経って、京阪神地方へ,B29の爆撃が始まる。土佐湾上空から侵入し,徳島を通過して阪神へ向かう。



 その度に徳島では,警戒警報に続いて空襲警報が発令される。やがて目的を達成して返り道,おそらく、残った爆弾の処理として,徳島に投下して身軽になって帰って行く。 ひゅーっ という 不気味なおとのあと 大音響と地鳴りがした。 「爆弾投下」

 このようなことが続く中では,学校にまともに通って一日を過ごすことは殆どなかったように記憶している。生徒は自宅退避として下校することとなる。 

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 昭和20年7月3日 この頃になると,警戒警報は出ず、いきなり空襲警報が発令されたりした。

 殆ど時を同じくして,B29の爆音が聞こえたりもした。 ラジオの放送は正確に報道する機能をなくしていたのだろうか?        

 毎夜の空襲に,夜中に起きるのは慣れっこになっていた。この夜も、家の中に作った防空壕には入らずに,直ぐそばに ある「眉山」の麓につくられた,大きな横穴式の防空壕に向かった。 横穴の中には,70人から80人位いた。 

 
 父親は町内会の消火要員として家に残っていた,母親と兄弟3人がこの横穴に入っていた,どのくらいの時間がたったのか、B29の爆音と一緒に辺り一面が昼間の様に明るくなった、それは「照明弾」というものだった。ザーッというおとがして、焼夷弾が投下された。もの凄い地響きと,横穴の天井から,パラパラと砕けた小岩が落ちて来る。
 
 横穴の入り口にも落ちてきた焼夷弾の炎が一ぱいに広がって、入り口を塞いだ。避難していた人たちは,入り口から離れて奥の方へ移動した。瞬間 もう逃げられないと思った。この時 一人の男の人が,炎のなかを外へ飛び出した.。        

 母は、3人の子供を自分の胸に抱え込んで,「死ぬときは皆一緒に!」と叫んだ。 恐怖感はなかった。      

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 数時間後、焼夷弾の投下が止まった、入り口を塞いでいた炎も消えていたので横穴から外に出てみた。体全身が真っ黒になった人が座っているのが目にとまった。多分炎の中を飛び出した人だと思った。                 

 我が家のある町の方を見るとあたり一面が火の海となっていた。低く唸るようなB29が低空飛行で飛んでいた。胴体が  地面の炎に照らされて紅く光って見えた。      

 勝ち誇ったようなB29の大きな機体が、こんな低空を飛ぶのを初めて見た。それを攻撃する音も,飛行機も飛んではいなかった。  


 横穴のあった付近では、家族の安否というより,生存を確認し合う光景が、大声で肉親の名前を呼んで探す人達が大勢いた。

 消火要員として自宅にいた父親がわたし達の名前を叫びながら探していた。無言で再会を喜んだと思うが,このときには、もう人間的な感情を失っていた様に思う。父が懇意にしていた友人宅を目指して横穴防空壕をあとにした。      

 まだ、町中の方々で1メートルぐらいの炎をあげて燃えている所をよける様に前に進んだ、川のほとりには、熱さにたえかねて,川に入った人が大勢いて、みんな動く様子も無く,浮いていた。
 
 やがて父の友人宅(寺院)についた,境内に黒く焼けた動かない人間がびっしりと並べられていた。何故か 怖いとか,悲しいとかそんな感情は皆無だった。   

 この寺の住職には会えなかったのか,黒く焼けた丸太のような物体を,またいだり,よけたりしてこの寺院をあとにした。

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  その夜は 徳島市内から少し離れた,お寺の境内で一夜を過ごした。真っ暗な境内で ごろっと横になると顔中に蚊がたかってきた,その数、尋常ではない、手で顔をたたくと,,手のなかで蚊の死骸がいっぱいになる。そんな中で一夜を過ごした。

 不思議にも空腹の感覚を抱いた記憶がない。 

 
 翌朝、市内の方向に目を向けると、今まで見たことも無い光景があった。視界を遮るもの全てが焼失し,遠方の地平線が見えた。

 途方にくれるには、十分な景色だった。 とりあえず母の実家がどうなっているか,確認のためその方向へ歩き出した。

 全くの着の身着のままでしたが、母が持つ荷物のなかには、先祖の位牌と過去帳があり,空襲の度、持ち歩いていた。

 母の実家は,奇跡的に,辛うじて焼失を免れていた。 2軒続きの長屋でしたが、路地を挟んで隣の家は焼失して跡形もなく,庭の立ち木だけが残っていた。祖父母は健在で、とりあえずここに同居させてもらうことになった。
 
 以前,町の商店街であった焼け跡には、もとは酒蔵だったか,大きな樽の底に,焼け残った酒が残っていて、すくいとって持ち帰る人が、また木の樽は焼失して,中身が山型になって残っていて、それは幾分焼け焦げてはいるが、明らかに味噌だった。

 わたしも、この味噌と追加して片栗粉を無断で頂戴して持ち帰った。 ごめんなさい!
 (以下②に続く)

 

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